▶︎ナーダム

ナーダムには長い歴史があるが現在の形になったのは2003年「ナーダム法」が制定されて国家的な行事となってからだ。

革命記念日である7月11日12日と決められその前後1週間ほど国民祝祭日として休みにする会社が多い。

3種目があり、競技場で行う相撲と弓射と郊外で行われる競馬である。

開会宣言は大統領がするので、日本の皇太子も出席していた。                         各種団体が民族衣装を着て行進をしたりチンギス・ハーンの軍隊を模した騎馬軍団が行進したり、最後尾はなぜかオートバイの行列だった。

競馬は街中から30キロメートル離れているので初日に車で向かったが渋滞で諦め2日目になった。

ナーダムの主会場の全景。

開会式にはモンゴル大統領がスピーチをするが、皇太子殿下も主賓席に招待されていたが、私の席からは見えなかった。

モンゴルの正装をした3人の男性が式典の始めに挨拶をしていたが、そのうちの一人は白鳳のお父さんであると教えてもらった。

モンゴル最大の国民的な祭典<ナーダム>で、弓射の選手は民族衣装も競っている。

 

お願いして撮ったツーショット。

行進の最後尾はオートバイ軍団。

ナーダムの相撲。

土俵がなくまわしを着けるほかベストを着ている。

選手達は取り組みに先立ち独特の踊りを行い闘志を掻き立てているのか、美学なのか聞きそこなった。

競馬は郊外で行われるが、見物スポットはウランバートルの中心地から30キロ先回りして待つことになる。

見学コースには縄が張られており競走馬はかなり遠景にしか見えないが、私達から見えるところで、

突然倒れた馬があり、馬上のこどもは無事だったが馬は亡くなったと聞いた。ゴールを目前にしての壮絶な死である。

珍しいことではないとも聞いた。

競馬の騎手は5歳6歳の少年少女と決められている。

理由は馬に負担が掛からないように体重の重い大人はダメということだそうである。

モンゴルでは2歳3歳から乗馬の練習が始まる。                                 この少女も幼く、嬉しいのか泣きそうなのか分からないがお父さんの優しい眼差しが分かった。

▶︎食事、お土産

モンゴル国の人口は260万、首都ウランバートルに96万が集まっており、市内の交通渋滞は東京並みである。

高層ビルとバラックの家が併存していて戦後の日本を見る思いがした。

モンゴルの大草原と吹き渡る涼しげな風には魅せられたが、首都の喧噪は要らない、と言うのが旅行者としての勝手な言い分である。

モンゴルの食事については羊、牛、豚、鶏のお肉がメインで添える野菜はいつも決まっていて、期待できない。

私はもっぱら羊を注文するようにしたが、モンゴルではマトンばかりでラムを食する習慣はないと兄X君から聞いた。

子供の羊を食べないのは、いかに羊を大切にしているかを物語っている。滞在中招かれた二つの家庭で羊料理が出たが、長く煮込むことで肉は柔らかくなり味付けは家庭によって違うことを知った。

ビーフも霜降りはなく固いのが当たり前のようだ。

写真は串に刺した焼き肉で<シャルサン・マハ>という。お肉はビーフ。

<ホーショール>は巨大な揚げ餃子である。

 

飲み物はビール、ワイン、ウイスキー何でもあるが、私は昼間はビール、寝る前はウオッカを弟Q君に注文した。

ウオッカはチンギス印で500円くらいから2000円くらいまでグレードがありオンザロックかお湯割りでとても美味しい。多少重いがおみやげにも最適である。

女性達へのスーベニヤはやはりカシミヤのショールだ。

宿泊先のQ君の高級マンションから(元国営の)ノミンデパートがすぐ近くだったので、何回もカシミヤを買いに走った。ここはUSドルが使える。カシミヤ工場は日本政府が寄付したものもある。

▶︎旅のおわりに

海外旅行ではその国の対日感情が気になるが、行く前はモンゴルから大相撲へ40人近くも来日しており、経済援助もしているので、友好ムード間違いなし、と思っていたが、朝青龍の1件で雲行きが怪しくなった。日本人が<モンゴルの英雄をいじめている>と言うのがあちらの見方である。白鵬は日本人を妻にしたので「(純粋な)モンゴル人ではない」という見方で、彼我に違和感がある。

モンゴルの医療事情は医師の給料が非常に低い、理由は国民が貧しくて病院へ通えない、患者が少ないので病院の収入が低いということのようだ。X君が勤務する国立第2病院を見学したが市から預かっているMRIを利用しているが建物は随分古びていた。彼の上智大学での修士論文は「モンゴルの医療制度」であり、日本の医療保険制度の書籍を送って欲しいと頼まれたが、まだ約束を果たしていない。

モンゴル旅行のリピートはあるか?と聞かれたら答えは微妙である。5時間と近いことと友人が居ることでチャンスがあればもう一回行ってもいいと思っている。
(平成20年2月 68歳の誕生日に三島市医師会報に投稿したものに加筆した)