10年振りの海外旅行〜パリと近郊〜

私の初めての海外旅行は31歳、横浜の県立病院勤務医時代でした。久留米出身のY先生に同行をお願いしてヨーロッパへ2週間も素晴らしい旅を

しました。数年後、ニュージーランドへ一人旅やヨーロッパへ家族旅行や留学中の長女を訪ねてアメリカ南部へ短い旅も有りました。

最後は若い友人のお世話でモンゴルを旅したのが10年前でした。

 

 

 

10年前に孫娘が誕生して、海外へ行くより孫と遊ぶ方が楽しくなり窮屈な飛行機の長時間の箱詰めは、もういいや、となりました。

 

それが、高校の同級生で親友の石田君と恵比寿のモナリザというフレンチレストランで食事をした時に

「僕がいる間にパリに来ないか」と誘われ娘たちの力強い後押しで実現したのが、

201991日から8日までのパリを中心とした夢のような1週間でした。

 

 

 

石田君は建築家で、同じく建築家であるお嬢さん夫妻が広小路クリニックの新築を設計監理してくれた強い味方です。

10年前からフランスはパリのソルボンヌ大学で外国人向け夏期講習に出席、3ヶ月お部屋を借りて授業の無い日はレンタカーで

フランス国内を周遊するという人も羨む生活をしています。

 

「うちに泊まってくれればいいよ」という有難いお言葉に甘えて彼に1週間びっしり密着していました。

 

 

 

ちょっぴり心配だったのは狭い機内に12時間も閉じ込められることでした。

が、これはエールフランスのビジネスクラスを予約することで解決しました。

 

昔と今の違いは、メール、携帯電話の発達でしょう。国内に居るのと何ら変わりが有りません。

パスポートの取得から始まりました。これも昔は沼津まで行っていましたが、今では伊豆の国市役所で簡単に取れました。

 

 

 

後はパリに居る石田君に、自分が行きたいところ、見たいところ、食べたいもののリストをメールで伝えることでした。

ガイドブックを眺めてパリ市内ではこことここ、郊外では100キロ以内で行けるところ、二つ選びました。

モネの邸宅と池、シャンパーニュのメゾンとカーブです。

 

 

 

いよいよ出発です。羽田発着も助かります。

2時間前にJALと共同のラウンジでワインと軽食を頂き『フランス史』に目を通して過ごしました。

 

(写真1)のようにエールフランスビジネスクラスの客室はまるで

<個室>でした。

本を読んだりテレビを見たりしながら寝る時間になると機内の照明が

落ちシートは完全なフラットになるのでカプセルホテル並み

(経険はないが)で助かりました。

 

201992日シャルル・ド・ゴール空港に着き石田君に電話

「出口で待っているよ」と安心な声。

地下鉄でパリ6区の石田君の部屋に荷物を預け夕食に繰り出す。

彼行きつけのレストランで生ガキとシャンパンを注文。

2種類の牡蠣を6ピースずつ注文。黒パンとレモンが付いている。

(写真2)

パリ2日目は、今年4月に火災を起こしたノートルダム大聖堂を遠望するところから始めました。火災は工事現場のタバコの消し忘れと言われていますが、尖塔や屋根が木造で完全に焼け落ちてしまいました。マクロン大統領が「5年以内に修復する」と宣言したところ世界中から寄付金が殺到したと言うこともニュースになりました。(写真3

 

 

地下鉄で移動。1789年(火縄くすぶると覚えましたね)フランス革命の口火を切ったバスチューユ監獄の記念碑を見ながらカフェで昼食はビールとサンドイッチ、添え物のポテトチップの多さに驚く。

石田君が夏期講習に通っているソルボンヌ大学の見学から始める。入り口には守衛が二人立っており、テロを警戒しているのが分かる。

石田君が夏期講習の受講証を見せて何か話すと簡単に構内へ入れてもらえました。 

後で「アレ期限切れてるけどね」と肩を竦めてニヤリ。シャレが似合うパリならではと感心。(写真5)

 

ルイ・パスツールとヴィクトル・ユーゴの彫像が迎えてくれた。(写真6.写真7)

 

 

今回是非とも見学したかった場所の一つは、サルペトリエール大学付属病院。パリのテロ事件以降セキュリティーが厳しくなったが、

夏期休暇が終わり学生や職員が登校して来ており、簡単な持ち物検査だけで校内へ入れた。

 

 

サルペトリエール大学は、パリ第6大学で医学部に当たる。

1882年に世界で初めてここパリ大学に開設された神経学発祥の地。臨床神経学講座の主任教授を勤めたのが、シャルコー先生(Jean-Martin Charcot

であり、46年前に遅塚君と訪れたことがあり二度目の訪問である。 

シャルコー教授は医師として当時漠然としか分からなかった神経疾患の患者を丁寧に診察し、症候を記録し、亡くなった後は解剖して病理と

対比させた。現在広く知られている神経難病の筋萎縮性側索硬化症(ALS)・脊髄性筋萎縮症(SPMA)・パーキンソン病(PD)・多発性硬化症(MS)などの

疾患概念と臨床―病理の診断学を確立したのです。そこにはバビンスキー反射を発見したバビンスキーも教室員だったからとても身近に感ずる。

 

 

同時に麻痺や痙攣・意識消失を起こすヒステリー患者の研究を行い無意識や催眠の研究も行っていた。

シャルコー先生の教室にはドイツへ帰って深層心理の発見やヒステリー研究を集大成したジークムント・フロイトが居た。

 

 

さらに特筆すべきは、フィリップ・ピネルの存在です。サルペトリエールは火薬工場の跡地に1613年慈善病院として作られ、ホームレス、犯罪者や売春婦と一緒に精神病の女子患者を5000人規模で隔離・収容するために作られたところだった。1656年ルイ14世のパリ総合病院計画で2つの総合病院と言語療法士・看護師養成学校を併設した医学部として整備された。ピネルは当時鎖で繋がれていた女の精神病者を「病者であって犯罪者ではない」と解放した医師として後世に名を残した。私が46年前に訪れた時は正門を入った所にピネルと鎖を外されて蹲る患者たちの2メートルを越す大きな彫像があったので、それを探し回ったが遂に見つけることができなかった。石田君と二人で白衣を着ているので職員だろうと思われるアフリカ系の男性に尋ねると親切にも「ピネル」まで案内してくれたが、そこは「ピネルの名を冠した病棟」だった。

(写真8