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NO13-2『父を送り改めて知る父の愛、そして母を託されて』

被介護者 父 91歳 介護度1      母 87歳 介護度3      介護者 娘 56歳


年老いてゆくということが、本人にとって、また周囲の者にとって、こんなに大変な想いを抱くとは、
自分の身にかかるまでは想像もできなかった。
 


 父は91歳で今年他界した。“歳も歳だから…しかたがない”と半分はあきらめ気味に思うのだけれど、
生前の父の姿を思い返す度に、ああしてあげれば良かった、こうしてあげれば良かったと後悔の想いが
残る。

とは言っても、父にとって本当に何が良くて何が悪かったのかは今となっては誰にもわからない。
今、こうして目を閉じて、最後の2週間を過ごした病院での痛々しい姿と、元気だった頃の笑顔を
思い出すと、様々な想いが溢れだし、いつしか自然と涙が頬を伝っている。
そして、生前には気づきもしなかった、父からもらった沢山の愛情と、父への感謝の想いが、
抑えがたく溢れ出してくる。

 


 私は人生の終焉において父に苦しんで欲しくないと思っていた。
だから本人が望まない限り延命処置はしないと決めていた。
しかし、実際にはどこからが延命治療でどこまでが延命治療でないのかが分からず困惑ばかりしていた。
治療側のすべき行為と、それを受け入れる父と、私の戸惑いは自宅にいた頃には味わうことのない
ものだった。

自然に死を迎えることのできる在宅死ができれば、迷いも苦悩も少なかったかもしれない。
しかし、それができない環境にいた私は、絶えず戸惑い、苦悩し、

いたたまれない感情に胸が引き裂かれる想いだった。

何をどうして良いのか分からなかったけれど、せめて苦しみだけは最小限にしてあげたいと思っていた。
 


 病床で次第に弱り、殆ど寝たきりになっていた父ではあったが、たえず残る母のことを心配していた。
私は認知症の母に、死期の迫った父のことを伝えるべきか(周囲の反対もあり)迷ったが、
父と母の互いを想う気持ちを考え、ためらうことなく時間の許す限り母を父のいる病院へ連れて行った。

 

 


 母には父の状態のことを説明してもすぐに忘れることは分かっていたが、何度も何度も繰り返し
同じことを説明した。母はいつも自分の頬を父の頬へそっと寄せ、父の髪を撫ででいた。
私はその景色を見る度に涙が止まらず、思わず部屋から出てしまうこともあった。
 他界する2日前も父は残る母のことを心配していた。私は父の耳元でそっとつぶやいた。
「大丈夫だよ。心配しないで」「今まで有難う」と・・・。

 


何度も何度も私は繰り返しそう伝えた。最後の時、父は何か私に言いたそうだったが、
わずかに唇が動いただけで声にはならず聞き取ることができなかった。
あの時、父は何と言いたかったのだろうか?今でも気にかかる。
後々、弟にその話をしたら「『ありがとう』って言ったんだよ、きっと」と話してくれた。
もしかしたら『母さんをよろしく』と言いたかったのかもしれない。

 


 お葬式に参列した母は父の遺影を見つめながら「こんなになっちゃて」と寂しそうにつぶやいた。
お通夜、葬式の間そこに居た母はいつになく凛として、とても認知症になっているようには見えなかった。

 

 

 敬愛する父の人生の最後を看ることは私にとってとても辛いことだったが、幸いなことは、
木野先生と出会えたことだった。

年老いるということ・・・、認知症とはどういうことか・・・、
そして病気になるということは・・・、その都度、病状や知識を教えていただいた。

 

その結果、私は次に何をしたらよいか、どのように考えていけばよいかを迷いながらも心の準備を
することができた。

 


また、「ほほえみの会」の参加から、そのための具体的な言動を学ぶことできた。
このようなひとつひとつの出会いは私自身があらかじめ設定したものではないけれど、

偶然の出会いを通し、そこから得るものを大切にしていくことで、

どうにかこうにか悲しみの道程を乗り切ることができた。

 

 

そのことを私は何より感謝している。